Modern English metaphrase of THE SEVEN SAGES OF ROME (MIDLAND VERSION)
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Q

1985年 卒論ローマ七賢物語(サウサーンバージョン)より

橋 泉


"Ffor whan a man beleveth them best," (For when a man believe women best,)
「一人の男が女達を最も信用すると
"They will begile hym all þe sonnest." (They will beguile him all the soonest)
彼らは立ち所に彼を欺くでしょう。
"For they that make semelaunt fayryste " (For they that make semblance fairest )
何故なら彼らが最も麗しいふりをする時
"They wylle be fals aldyr formyste. " (They will be false all foremost.)
先ずは彼らの猫被りであって本性を包み隠しているからです。
"Loo, syr, quothe mayster Iesse, " (Look, sir, said master Jesus, )
いいですか陛下、イエス師が言った。
"Such a chaunce falle nowe the " (Such a chance fallon you )
このような不運にあなたもめぐり合うのですよ。
"As hadde the gode knyght of honour, " (As had the good knight of honor,)
誉れ高きりっぱなナイトがそうであったように。」
"God it forbede, quothe the Emperoure. " (God forbid, said the Emperor.)
そんなことは絶対にない、と皇帝は言った。
   {E版に続けて構成}
"Nowe hathe the mayster hys tale tolde " (Now the master has told his tale )
イエス師は今彼自身の言い分を述べてから
現代英語の熟語: tell one's tale には身の上話をするという意味が載っている。新英和大事典、P.2505 tale 参照
"And jsauyde the child bolde. " (And saved the child bold.)
勇敢な皇帝の子供を救い出した。」
"The Emperyce thought another to doo " (The Empress thought another to doo )
皇女は他にすることを考えた。
"To bryng the chylde in more woo." (To bring the child in more woe.)
王子をより一層悲しい極刑に導くために。
  {Ar版に続けて}
"ӡif þou for þin emperice wild" (If you for your empress wild)
「もし陛下が陛下の無法な皇后のために
"Wolle sle þin owen child." (Will kill your own child.)
我が子を殺めてしまうのなら。
"Ac, sire, abid til anoþer morewe. " (But, sir, await till another morning, )
しかしお待ち下され、また朝まで。
"On hire schal falle alle þe sorewe." (On her shall fall all the sorrow.)
彼女にすべての悲しみが降り注ぐのです。
  {B版に続けて構成}
"Whan thow hereste thy son speke, " (When you hear your son speak, )
「陛下が王子のしゃべり語ることを聞く時こそ、
"On her thow wilt be awreke." (On her you will avenge.)
黒魔術(necromancy : 降霊術、妖術、)を信仰した彼女に陛下は復讐なさるべきです。」
  {A版:"Riӡtfulliche þou him awere." (Rightfully you him avenge.)
  「正しい裁判によって彼にかけられた嫌疑を晴らすのです。」}
"I trowe, master, thow sayste truthe, " (I trust , master, you say the truth,)
「私は師を信頼していい、貴方は真実を話す。
"Ffor ever my hart is in myche ruth," (Forever my heart is in much grief,)
永遠に我が心底は深い悲しみにあるのだが。
"After thy rede do j shall." (After your advice I shall do.)
師の忠言に従い私は実行するとしよう。」

参照: 1985年卒論の下書き原稿あらすじ

心の優しい武士が、ある日若く美しい妻と新しい小刀で戯れて妻の親指を切りその悲しみで翌朝死んでしまい、 死体は寝ずの行で見守られてから埋められた。彼女の友人達は、”Of þi selue have pite" (Of thy self have pity)  「ご自分を哀れみ」 "Gode children biӡeten and faire" (Good children beget and become fair)
気高い武士に子をもうけさせなさいと言ったが、彼女の悲嘆は去らず彼らは夫の墓所近くに仮屋を造り
彼女に食糧を与えた。
 同日の裁判により盗みの罪で絞首刑になった三人の武士の一夜番をするために 封土を所有する
その国の武士は、教会の囲い地 "þe chirche hawe" (the church hedge) に火を見た。
"þe weder was cold and frowars" (The weather was cold and frozen) 天候は寒く凍えた。
"bi seint Johain" 聖ヨハネの名において拒絶した彼女はやがて武士を小屋に入れ、
"Dame, þou art a gade" (you are a companion) 貴女はコンパニオン
"Þat mai þe do noþer god ne qued" (that may you do neither good nor bad)
悲嘆は彼女を良くも悪くもしないと語る間に、絞首刑の罪人の一人が盗まれた。
封土を失う苦しみに対する忠告を彼女に願って小屋に戻った武士に婚約を求めた彼女は、
亡夫の死骸を掘り出させ罪人の姿に似せて裸にさせたが、武士は卑怯者と呼ばれることを
恐れ その後彼女の忠告に従わなかった。 彼女は亡夫の首に縄を結び吊るしてから盗人にあった
傷を武士から受け取った剣で亡夫に切り付けて作り
"þat fals and ficeitful was hire blod" (that false and deceitful was her blood)
悪と偽りは彼女の血だと了解した武士の言う盗人の特徴を作るために 一つの石で亡夫の前歯を
打ち砕き (Sir , now I have won) 私は今汝の愛を得たと言った。
武士は(bi god above) 天の神かけて "þi false bodi ne wolde i spouse"
(I would not marry (espouse) your false body) 私は汝の不貞な体を娶らないと答えて
策略を用いる女性は決して信じないと誓った。
 構造型
SV 30,   SVO14,  SOV12,  OSV2,  SVC8,  VSO2,  CVS1,  VS1,  SVIOC1,

新訳ミッドランドバージョン、MIDLAND VERSIONと比較

12物語が終わり本文の和訳続き(卒論を基に2018年加筆)
第13物語始まり

それから法廷は割れた。
何人かは城の広間へまた何人かは塔へと、皇帝は塔の中の私室へ行った。
皇妃は悲しい様子で険しい表情をしていた。彼女は王子殺害を実行に移せなかったからだ。
それにもかかわらず皇帝の従者達はしばしなぐさめんとしたが、
直ちに貴族達と騎士達(ナイト)がやって来て近臣達に介入したのだった。
皇帝は寝室へ入りベッドに高価な絹織物を広げていた。
皇妃も彼のところに来て大の字になったものの彼らは何もしないまま一晩中眠った。
朝、皇帝は起き皇妃もまた目覚めたが気分が悪くなった。彼女は夫の手を取り問うた。
異国の吟遊詩人の物語を聞いたことはありますまい。どうして人々が愚者の祭儀 (folen feste: foolish feast) を行うのかと。
大学ノートの記述によれば
(folen feste :
フランスでは12-14世紀に広まった。スペイン、イングランドでも知られた1月1日に行なわれる祭り、
中世に知られている "The Roman Saturalia" サターン(Saturn) の祭り、
ローマ農業祭;古代ローマ、12月中旬に数日間にわたって行われた収穫祭で冬至祭り、
この祭りの間じゅう奴隷は解放され罪人の処罰はなくいっさいの公務が中止され無礼講の祝宴 が催された。)

皇帝は全く知らぬ、その物語を吟じて下されと求めた。
皇妃は七賢人が降伏するように確かな物語を再び考えて偽女流詩人の様に語りだした。
第13物語の史的考察

金子健二著 『英吉利中世紀ローマ七賢物語』本書の由来 9.10ページ抜粋
『中世期の物語材料はコンスタンティノーブルを経由し、或は北部アフリカを経由してスペインに移植せられたものか、
或はシリア、ジェルサレムを経て南欧に流れ込んだものが多いのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この物語の直接の伝搬者は十字軍出征の士であることに帰結を求めなくてはならぬ。そしてこれは又最も事実に近い想像たるを 失わぬのである 而してこの推断は亦他面に於いてこの物語の西漸年代を想像的に決定することになる。即ちいかに遅くとも、 第十二世紀の中葉以後の物で無いことは明かであるというに帰着すると思ふ。』


卒論下書き原稿コピー
新バビロニア王国が滅亡しペルシャのオリエント統一は、BC525年にさか登りローマ帝国成立前のギリシャ哲学
イオニア学派の時代, タレースの日食予言という反宗教的或は科学的史実に行き当たる。 
ローマ七賢物語における王子の星運の伝統がここにも見い出せるような時代の発見は、プロローグの七芸 seven arts
一語に集約されていたようだ。
一人の宗教家マニは、紀元216年頃バビロニアに生まれたペルシャ人で、ゾロアスタ―教を国教としたササン朝ペルシャの
宮廷内に彼を教祖とするマニ教の信徒を得た。『キリスト教や仏教の要素を加えたペルシャ系混合宗教』は、ローマ皇帝
ディオクレチアヌスによって古代ローマ帝国への伝播を食い止められた。 史実は、296年、ディオクレチアヌスの
マニ教徒迫害の記録を残している。 ササン朝ペルシャとの戦いと和睦はその後続けられたが、ペルシャ国内では
アーリア人の神、ゾロアスタ―教の善神の1で豊穣と光明の神、太陽神、ミトラ崇拝の最盛期で、これも古代ローマ帝国に
伝わり、ペルシャはキリスト教迫害続行の記録を残し、サラセン帝国、イスラム教成立 紀元610
『マホメッド 天の啓示を受く』の時代となる。
ササン朝が倒れた時、ローマ教会はグレゴリウス1世が教皇制度の拡大を図っていた。
サラセン帝国は1258年まで続きその間に、1095年フランス軍を中心とした第一回十字軍、1147-1148年コンラート3世、 ルイ7世の独・仏君主が参加した第二回十字軍、 1189-1192年フリードリッヒを小アジアのキリキア、サレフ川で溺死させた 第三回十字軍、1202年聖地イェサレムに向かわずコンスタンティノーブルを占領してラテン帝国を建国した第四回十字軍、 1212年児童十字軍の失敗、  1229年神聖ローマ帝国(ドイツ)王フレデリック2世の第五回十字軍、1248年フランス王ルイ9世が起こした第六回十字軍、 1270年仏王ルイ9世の第七回十字軍の遠征が続いた。

皇妃の第13物語

皇妃によるイスラム世界のスルタンに立ち向かった霊妙なるジュニウスの物語
{ Junius : Januarius ; Janiver; January ; 一月という名前の由来 }
【 以下原書の四種類版をもとに和訳全訳(2018) 】
 陛下、これは事実ですがと彼女は申しました。
昔ある時、ローマはぐるりと囲まれました。
異教徒の王達、七人のサルタンという幻の敵が攻めよせて都市の壁、門、城、そして浴場まで
包囲しました。それらはすべて長年月を要した労働の所産でした。
名誉あるローマを襲撃してペーター宮殿の聖ペーター門を陥落させるために、
換言するとキリスト教国を制圧してキリスト教徒を皆殺しにしようと考えていました。
ローマの人々は、槍や盾を握り鎧を着て邪教徒の侵攻を防ごうとしましたが、
彼らは、イスラム教徒;サラセン人(Saracen)に対して相当な恐怖を抱いていたので
城門から出て来る者は誰もいませんでした。
そうした籠城中に不屈の精神をもって生き抜いてきた一人の老人が賢い言葉を投げかけたのです。
「陛下、私に耳を傾けて聞いてください。陛下にお授けできる良い策があります。
帝国が滅亡するのを救うために七人の学者にこの町の全権を委任するのです。」
この都市は彼の助言を採り入れ、七人の学者が警護し巡視する事まる一ヵ月、
文書(聖書、経典、碑文など)に見られるように彼らはこの町を災害から守りました。
しかし一ヵ月が終わった時彼らはもはや防備できませんでした。
彼らはそのころ知恵の一策を考えていました。
攻撃しない防御策の絶妙なる事をこれからお聞きくだされよ。
陛下、間違いなく彼らが窮したのは所謂兵糧攻めでございまして、
彼らの貯蔵ワイン、パンは早くも不足し、有り余るほどの食糧はすっかり食べつくされました。