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ローマの七賢物語 卒論前の英語学演習Iのレポート

寿岳章子著 『日本語と女』 Nov.13.83

 「女らしさ」 と称するものによって行動の制限を受け、女らしさという網にからめとられる辛さがある。 女性史は、自らの固有の生き方とかせとの間の矛盾を解決する思想も表現している。
 ことばの作る女らしさの基本的条件は、自然と恣意である。 調査週刊誌のわくを超えて文の止めは、感情的効果を生み出す。 女が聞くことを好むことばの世界の限定と 男性の一つに固まらない読書の傾向を 女の欠落と見る生活的場面がある。
 そこに女の純粋の思いのことばに現れたものも 日本語のなかにありあまるほど存在する 意図的な女らしさを示すものも含め、男では書けない文章を 多くの女性が示した。
 ひらがなという文字体系を女文字として確保していた王朝の紫式部と清少納言のちがいは、 私的なはけ口をかな書きに求めた「土佐日記」の後に、漢語の世界をちらつかす わらうべき女と賢い女の寂寥である。平安時代では、「いと」の使用率は、枕草子、源氏物語、 かげろふ日記、和泉式部物語の順である。
 人称と終動詞は、日本語における男らしさ、女らしさのそれぞれの砦のようなもので この2つを使いこなせば会話の部分だけでその語り手の性別を明らかにできる。
一種の個性的な文体作りは、
MVR= 形容詞・形容動詞・副詞・連体詞の数 × 100 動詞の数 ×100
で計れる。
男と女の文体の差はナンセンスで、同一作家の違いが実のある論議となる。吉屋信子は、 抒情文が女性にふさわしい 個性論を強調した。
 女が、男ことばを自分のものにし、男が、女ことばを使うことは、 ことばが踏まえる世界の重大さを教えてくれる。
「お前」は、一種のヒエラルキーを獲得している者が下の者に声をかけるときのことばで 日本の家族主義の精華のようなものがある。 ニュアンスのちがいは、使わないでおこうとする決意も生む。
 男は、中世風に、 女は、べたべたのことばでという一種のマンネリに憤慨している女性も多く、 女性の終助詞は、時には邪魔になる。
 その一方で女らしさの敬語は、敬愛の情の表現として 脱敬語の状況の進行中、 女らしさの強力な武器となっている。 日本は、男女にかかわらず帰属社会での地位の上下、 性による大前提的上下が、民主化と敬語使用と女、 日本人の古い伝統的言語の問題として無視できない。
 愛に関する語彙  愛する、いとし、ろうたし、うつくし、かわゆし、いじらし、可憐な 等の女性賛美だけでは、うたはできず、 歌謡曲の中には、待つ、恨む、悶える、はかない昼さがり・・・・ その歌の環境を実際の状況と照らし合わせ、 そこでも王朝の女人の再現   現代のうたの世界にあることに気づく。
 教授の赤ペン印箇所 ?  実際の女性の姿をそのまま投影しない1種奇妙な虚構の世界の住人も、 居直りことばだけは悲しいまでに現実的で、そのレッテルはりは、 男の人生の、どうせ、という境地と同様に 型はまりの職業、社会と共鳴して ある種の女たちが自主的な生き方を始めたとき、まっさきに頂戴するレッテルに導かれる。 ?
 社会主義的な思想は、女性問題を考える上で どのように彼女達を刺激したのかを追及するのに、 歌謡曲よりも 各地の女性の手記の報告が用意されている。
 『ある農村婦人グループでの戦い』で 「女の一念岩をも透す、 男の一念寝間に糞垂れる」 ということわざは、女の思いかけない強さをたたえるものではない。 『夫婦げんかの世界』では、 「家庭内独裁者は職場でも、さらに大きいいろいろな集団でもやはり独裁者に なる傾向がある。 家庭できっちり討論がやれている人は、外へ出ても民主的にふるまう人である。 そんな意味で、夫婦げんかは民主主義の学校なのだ。」と述べている。 (「本の引用文」)

☆    

鈴木孝夫著  『ことばと文化』Nov.13.83

 自分と他の同じ文化項目の拡大が、全体ではなく 辞典も 項目対項目の対照に終始するが、ことばの使い方を規定している必要十分条件を 発見し、不適切な拡大解釈なく理解することが必要だ。 顕在的な文化に対してかくれた文化に気付くことは、異文化理解の鍵である。 単語のレベルを離れた、かくれた文化、かくれた構造は、諺の中に見いだされ、 外国のことばや表現を無意識のうちに、自国の文化のコンテクストに置いて解釈してしまう 傾向がある。
 もの、物体の動き、人間の動作、心の動きとことばは互いに対応し、人間を網目の中に 押し込み、ことばが人間をあらしめる。 
 言語は、生成、流動の世界を整然と区分されたものの集合の姿の下に 人間に提示して見せる虚構性をもつ。 人間 世界を特定の角度から整理し把握したものは、最終的な 確実なものではない。人間の体の部分の名称の示す範囲は、言語によってちがい、 例えば突出物を示すことばの構造が違い、同一部位に対する人々の見方、位置の置き方も 分化により千差万別である。  形容詞の内容の1種の錯覚は、潜在的に比較している構造にある。 規準を必要とする形容詞を相対的な形容詞、事物対象に根ざす性質を表す形容詞を 絶対的形容詞と呼ぶ。 A は、B より大きい、のような文は明示的比較文であるが、「A は大きい」 なら潜在的比較文で、その規準には、「種の規準」 「比率規準」 「期待規準」 事物や対象の性質それ自体よりもそのものに対する 人間の都合を言う「適格規準」があり、各種の次元を表わす形容詞は、 多少、適格基準の意味合いを含む。 人間の持つ調和感覚の範囲をいう 「人形の規準」から 全称命題的性格を持つ表現が可能となる場合もある。 「或る一定の音的形態と一定の意味が結合したものがことばである。」 意味は、非言語的な心的現象とされたのは、情緒的意味、含蓄的意味が 周辺的なものであることが多いからで、 音形と意味内容の分離のない基礎語のよる循環定義に陥っている辞典は、 意味を説明しない。  「音と結合した個人の知識体験の総体」 と規定すると、ある者の間の同一のことばに関する理解の内容の相違は、共通項を捉える 指示的意味の考え方を 空疎な虚構だと示す。 指示定義は、同一の体験を教えることができず、定義の中に取り込まれる可能性を持つのは 名詞で、本来的名詞は、ことばの知識とものの知識の区別が不可能である。
  自然、生活、宗教、習慣などの日本的現実をはかる尺度を日本語それ自体に求めず 外来的でしかない西洋的価値基準を 普遍的尺度のように錯覚して使用していることがあり、 西欧の社会、文化的現実に基く概念が、 ことばとしての日本語の既存に引きあてられ 極めて安易な形で両者の優劣を論じたり、 明示的な部分のみの対応関係が、人々の注意を引き、 新しい知見を得ないといったことが起こる。

 人称代名詞を使うことが限られている日本語には、自称詞、対称詞、他称詞の 言語社会的な法則性がある。 親族動詞の対話のことばの構造を分析すると、人称代名詞を使える、 親族名称で呼ぶ、名前だけで直接呼ぶ、自分の名前で称する、 自分を相手の立場から見た親族名称で言う、 この5項目が、分割線上 (祖母、祖父、父母、おじおば、兄姉) と  線下 (妻、弟妹、姪甥、娘、息子、孫) の2分によって決定する。 これは、社会的状況にも拡張的にあてはまる。
「ある特定の親族集団内では、目上の者は、目下の者が自分を呼ぶ、まさにそのことばを ひき取って自分のことを称する。」
自分を地位や資格を示す名称で呼ぶケースもある。
家族内で用いられる日本語の親族名称は、 他者中心的用法である。それは、普通の自己中心語として右、 自己を相手に同調し一体化して使われた右で説明できる原点の移動である。 実際には、血縁関係のない他人に対し親族名称で呼びかける虚構的用法の 一般原則は、自分自身が原点となる。 自己中心語としてではなく使われることが、現代日本語の特徴をなしている。
 本書は、6章からなり、最後の人を表すことばは、総合的に捕らえるのがむずかしく、 1つ1つの具体例でつながっている。
 ことばと行動様式で、その概観をもとに具体的な役割の固定化と一元化、 対象依存の自己規定について述べられている。 (「本の引用文」、万年筆返却原稿は、6章すべてを書けずにここで終わっている)

多くの言語 一つの世界 (課題書籍は、言語と文化『多くの言語 一つの世界』 July 27,83)

 人間の所有する言語は、実際の世界舞台でそれぞれの「社会を統一する接着剤」 であり、社会の問題、要求、価値を映す鏡と  人間の経験を様々な方法で分割する地図との二つの機能で同時に働く。 人々は、「母国語の中で言葉で表されている区分によって森羅万象を理解する。」 ある母国語を話す人と局外者の間には、言語の障壁があるにもかかわらず、国際理解のために 共通な立場があるから、外国語の真の理解は、逐語訳以上の能力で文化全体を理解することにより 可能である。それぞれの社会と言語は、人間共通の動因と要求を明らかにするが、 それが生じた社会の理解と共に解釈されねばならない。
人間と動物の間の意思の伝達の問題は、海豚の信号体系とチンパンジーの米国てまねことば の実験により解明した。後者は、前者よりも言語に接近し、身ぶり語は、文のような意思の伝達様式だった。 海豚のように言語を模倣する動物は、眼前に存在しないことを話さず、 人間が話すときする行動とは異なる行動をする。

 遠く離れた地に住む人々の言語は、奇妙だ。 世界中至る所で観察した妙な統一パターンは、 美の規準・「集団帰属のしるし」である服装・求愛とデートの習慣・老いた親が雪の中に死に所を得る エスキモーの親子関係・せり売りの取引方法である。 これらの社会の統一様式は、言語と関係があるため、言語が、最も奇妙で重大な統一パターンなのである。
 言語は、発音・語彙・文法が、互いに違いまた ある物を知ったり他の物を無視する方法が違うため、もはや社会が、対象を指示する語の価値を 認めない場合、言語が有用な社会を反映する鏡だ。 実際の地図が、国の地理を伝えるように 言語も社会の人生観や世界観を伝える。二つの異なる外国語と英米語の地図が一致するコミュニケーションは、 真実ではない。 例えば、スペイン語と英語は、bull-fight (闘牛)  を別様な地図で描く。スペイン語の 光栄ある corrida de toros を Bull (雄牛)と Bull-figters(闘牛士) が legs を持ち Bull の見地からの Bull-fight であると翻訳するのは誤解だ。 あるいはフランス語の bon の意味は、coffee に用いられた時その社会にあり、辞書にはない。
 子供は、不変の状態の観察から 話す前にでさえ 重力の事実を突き付けられてはっきり分かった経験などで 自然法則と自分の感覚や周囲の秩序ある規則に気づく。それぞれが持つ特有の名前は、子供に経験地図を 作る方法を与え、その地図で「あたりの方角」を知る分類であり、時々 正確に観察と適合するが、他の状況では、観察を自分の言語分類法に合うよう調節しなければならない。 子供が、物の区分を学ぶ時には、母国語を使用した分割方法を修得している。

ナバホ語と英語を母国語にする幼い子供達 2 グループで 物・(形・色)の分類法の実験が繰り返された後、 1つの配列をする割合が等しくなった。前者には、使用する物の形による動詞があり、 早くからそれらに注意を払うことを示し、後者は、たとえばコップを そんなに多くの区分に分割しないことを 子供が発見する。いったん品詞による世界の分類をしてしまえば  特に印欧語族と文法的に違う イロカノ語のような 語根、接頭、接中語尾などが組み合わさって一語の長い合成語をなす言語を学のは不可能だ。
  アメリカインディアン「ズーニ族」には、 色の連続体の orange を区別する語がなく、 「オジブワ族」は、馬の採用の歴史的関係で犬と同じ語で分類し、 「カイオワ族」は、地面と床を 同じ語で示す。
 ある部族には、女性の親族全部を1グループに分類する1つの語があり、 母を区別する語を欠き、英語の brother は、あまりにも広い分類なので 必ず個々の事実が大切となる。
 ある実験の示すところでは、多くの色の語彙を学んだ子供は、色の区別に気づきやすい。 米国において 色の違いは男が「色彩の識別力」 ではなく 「1語の名称を欠く」ため理解できない。

 イタリアの格言「翻訳者は反逆者」について、 英語と他の外国語の比較がなされている。 その例は、ーーーフランス語の形容詞との不一致。  スペイン語には英語 ofice に対応する oficina, despacho, consulta, bufete, という4語がある。  計算機は、記憶装置に貯えられた語から奇妙な選択をするので 二カ国語相互の翻訳は危険な過程である。 中国語では人数を明言せずに話すことができる。 エスキモーが、様々な種類の雪の語を持つと同様に、 米国文化には大切な語 rain があり、 10数語で種類の違いを明確にする。 英語 to go に対して、 ドイツ語の動詞、 gehen, fahren, reiten, は、行く手段を限定し、 中国語には、運送機能を明確に述べる30の単語がある。  英語 receive は、5つの違い (種、液体、小さいもの、食物、生きているもの)を明記するには広すぎる。__ このようにして他の文化に対する洞察を深め、食い違いの観察に成功した。

 人類学者や科学者が信ずるように すべての人間は、生活、地位、性、空間、時間、教育、娯楽を重んじ、 すべての社会の言語は、7つの基本的要求と動因について話す語と、 言葉を用いずに表現する行動がある。 それらは、人々の社会的背景と対照して読まねばならない。
 第1に、生活を愛する人間は、宗教、政治、医学、発明品などの自己防衛の方法を発展させ、 言語は、生存との関係を鏡に映し、地図に描く。 様々な職業の専門語、食物の語彙について熟考すると、ある国々の習慣と禁忌、 たとえば、食卓で流血の出来事を議論しないこと、 鉱夫の事故が3度起こるという迷信のため魔法数をさけること・ みだりに神の名を口にしてはならなど多くの例が上がる。

 第2に、「鳥類のつつく順位」にコンプレックスを持つ人間の権威の地位は、軍隊長の兵卒と陸軍大将への 話し方の違いや、ある場面での威厳に満ちた口調のように 話し方に反映される。

 第3に、言語は、2つの性の相違を反映し 「男女それぞれの性に望ましい特性」は、社会から社会へと変化する。

 第4に、無意識の内に列を作る空間の動きの違いが、ある2国民の意思伝達の妨げとなることもある。 英語には、宇宙飛行士の活動から我々の日常生活の場所、そして空間を測量する器具まで 広い語彙がある。

 第5に、生命は、予報できる時間秩序で年々続く。 四季、成長段階、日、週、月、 という時の循環の中で「時間的な順序」で死ぬ。 社会は年齢に重きを置き、歴史は、人間の学問であり文明である。 時間の区分とその相対的速さは、各文化の間で異なる。 アメリカ工場経営者と南太平洋原住民の間の誤解は、言語ばかりか態度も理解でいない時、 時間が原因だった。 我々にとって長い時間は、幾千年で時を考える中国人にとっては短い。 我々は、時は金なりということわざを持っている。

 第6に、学ぶことの過程、事実の暗記、論証、「経験学習」 日本人教師の「手を取って教える。」などでも 言語は、最も強力な手段であり、多くの教育的語彙がある。